2008年4月30日水曜日

Spain&France31~Segovia1(The World Heritage)~

午後からマドリッド近郊セゴビア(世界遺産)に向かう。実際には交通の状況によるが、90分前後で到着するという話だ。また現地ツアーに参加したものの、トレドほど人気がないのか、ツアー客は我々だけである。ガイドと運転手が1人ずつで、客が2人。採算がとれているのか、本当に心配だが、観光シーズンにはバスも満席になるのだろう。
真実に迫るには時間も金もかかる。一番必要なのは客観的な情報であるのは当然だが、その情報を元に思案する場合には、最終的にはそれらをどうしても暗記する必要が出てきてしまう。自分に引き出しを沢山作って、入れたり出したりを自由に出来るようにするには、暗記という作業が必要になる。正確に言えば記憶なのだろうが、それらの情報を手元においておくには、どうすればよいのか。一度覚えた記憶を忘れないで維持するためには、どのような思索が必要なのであろうか。脳の潜在能力を使い切ることなく人は死ぬ。何のためにそのような潜在能力を有しているのか。
意味がないものを備えるということもないだろう。とすれば、昔の人間はその能力を使っていたのかも知れない。人類の規模が拡大し、様々な側面を人類の生活に合わせていくことで、地球上で失われたこともある。それと同時に、人類は過去に使っていた能力を使わなくて良くなった可能性はないのだろうか。科学的に言えば間違えたことを言っているかも知れないが、その方がロマンがある。多くの世界遺産に、超自然の現象を人間が残している。今の人間には出来ないことが、太古の時代を生きた人間には当然出来ていたのかも知れない。
世界遺産などを見ていると数百年という長い時の流れを感じる。その時に思うのは、私はせいぜいあと数十年しか生きることが出来ないのだという事である。従って、数百年先の未来を見ると言うことは、現状では不可能である。タイムマシンという過去の時代からの人類の憧れは、未だに達成されていない。それは残念ではあるが、現実として受け入れざるを得ない。しかしこの先人類がどのような方向に向かうのかということには、非常に興味がある。日本のGDPがどうのと言う議論が盛んである。ただ日本は終わりだ、と言うことは出来るが、なかなかそれをどうにかしよう、という具体的な提案まで書ける人間は少ない。100年後の日本はどうなっているのだろうか。日本人は不幸な時代に入った。一国の経済規模としては大きいがために、国内で完結することで利益を確保してこれたし、国内で富が循環することにより、国の発展と共に、国内の産業も育ってきた部分もある。しかし他国の成長に伴い、生存競争というごく自然な現象が起こり、これまでのやり方では生き残ることが出来なくなった。下を見ればキリがないが、それでも今後の数十年で変化の苦手な日本という国が沈んでいくということは確からしい。ただ、もはや国家という概念は古いのであり、世界市民という発想を持つことが出来れば、日本人でも海外で活躍する者はいるだろうし、他国には既にそういう人材が多くいるわけである。日本だけに出来ないということもなかろう。


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2008年4月29日火曜日

Spain&France30~Metro2~

現代に氾濫した情報に対処する方法は、簡単である。例えば本屋に行って、無駄な本を買わないようにするには、今の自分にとって役に立ちそうな1冊の本を買って、それを何回も読み返すことである。役に立つと思った情報であるのに、愚直にそれを信じて繰り返す勇気が無いことが、情報に対して無力となる原因である。多くの人が言う内容は同じである。普遍の真理というものが、そんなに沢山あるわけでもない。必要なのは、1つの情報を得て、多くについて精度の高い推測するをことであり、多くの情報を仕入れることではないのである。
マーケティングにこだわった本など、手に取るに足らない。本というメディアの存在意義は、過去の蓄積を共通化することにあるのであり、多くを売ることでミリオンセラーを生むことではない。経済原理を考えれば、本が売れるということは、著者からすれば重大な問題だが、それ以前に需要がなければ無駄なのである。本も商品であるから、それを消費する末端の消費者がいる限りは売れることになる。殆ど意味がないように見える本が売れるのも、マーケティングの威力である。
これは、中身の無いものを綺麗に装飾して売ることであり、あるいは中身があるかのように嘯き、情報を氾濫させる、消費者の嗜好を弄んだ詭弁に過ぎないことも多い。しかしそのような本を手に取り、読んでそれなりに納得し、消費して終わる。そもそも書物とは、消費するものではなく、知識の蓄積の補助に用いるものであるのだから、大きく宣伝されている本ほど紙とインクとそれに関わる人間の時間と金の無駄である。人生を浪費のために浪費する。
簡単に手に入る知識などないのである。沢山の本を読んだからと言って、それらを全て暗記して尚且つ実行に移せるほど頭の良い人間は、そのような本を手に取ることはない。解決策はないのだが、生きるための知恵はやはり自分で意識して生きることでしか培われない。本によって救われたという人は、良い本に巡り合ったのであり、その本と共に生きれば良いのである。ノウハウ本も役に立つ情報も多いのだろうが、それらをこなすことが出来ない。結局それを消費し、また同じような本を買ってしまう。
食べ過ぎることは、味覚をおかしくさせるだけでなく、内臓までにも害を及ぼしてしまう。無駄な情報を取り入れすぎることで、消化不良を起こせば、情報の取捨選択のために必要な、自分自身というものを失ってしまうこともある。生きるということは、どうしても時間がかかることなのだというある種の諦めが必要なのである。食わず嫌いというものも良くないのだろうが、過ぎたるは及ばざるが如し。ある場所で手にしたものを、他でも応用出来るという能力を磨くための本は幾らでもある。少し乱暴だが、チャート式でも買ってきて高校生の数学の勉強の復習でもすれば良いのである。

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2008年4月25日金曜日

Spain&France29~Metro1~

スペイン広場から地下鉄でプリンシペピオ駅を目指す。午後はセゴビアに向かう予定である。旅行の際の移動手段としてはやはり地下鉄が便利だし、安い。切符を購入し、地下に向かうエスカレーターに乗るとサックスを吹いている男がいる。日本でも駅前には時々いるが、地下鉄の構内ではあまり見かけない。そもそも人が多すぎて交通の邪魔になるだけだろう。
旅行と関係のない話を書き続ける。客観的な情報というのは、いかなる書物に書いてあるものであっても当てはまらないのだろう。書いた本人の主観が評価されて世に出る書物も多いはずであるから、そのような情報に基づく行動は客観性であるということは有り得ない。従って市場において観察される価格というものも、客観的であると解して財務諸表では評価に用いているが、それは市場において客観的であるという定義づけをしたから許されるのみであり、寧ろ世間一般という範囲では主観的なものである。
しかし市場というものが、何かの役に立つ道具であるのならば、それをいつか役立てる立場にいる自分でありたいと思う。自分にそのような力があるとは今のところ信じ難いが、頑張るにせよ頑張らないにせよ生きなければならないとすれば、少しでも時間を無駄にしないために、人類のために生き、人類のために死ぬというのが一個体としては正しい選択だろうか。正確に言うと地球と人類との共存に貢献するということなるのか。ただ何かで目的もなく活動をするとか、そういうことではなく。
地下鉄は治安が悪いなどと聞くが、昼間であれば人も多いし、それほど心配しなくても良いのではないだろうか。日本でも夜出歩くのは気をつけなければならないだろうし、もちろん程度の違いはあるだろうが。日本で気を付けなければならないのは寧ろ、酔っ払ったおっさんに寄りかかられたり、嘔吐物をかけられたりしないようにするということである。金曜日の夜の電車の臭いは、いつまで経っても慣れることがない。

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Spain&France28~Plaza de Espana2~

上海の株式市場は相変わらずボラティリティの高い状態が続いている。市場の時価総額がピーク時の半分に近づいたぐらいだろうか。財産を失ってしまった中国人も多いだろう。印紙税の減税によって多少の回復を見たようだが、市場の歴史はこういった付け焼刃を歓迎していないのは明らかである。上海に上場している企業は、高騰する不動産の売却益で利益を計上し続けているという話もあるが真相はどうだろうか。実際に本業とは違うところで利益を財務諸表に計上する訳である。
このような財務諸表に基づいてその企業の収益性の評価など投資家が出来るはずがない。こういった局面では一般に普及したValuationという技術は殆ど役に立たないわけである。過去の歴史に基づき将来を予測するということが不可能であることは、多くの人に指示されている考えなようだが、それでも歴史は繰り返すと言うし、「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」などということも言われている。
歴史に基づいて生きても客観的な正解というものは得られないはずである。歴史は伝言ゲームと同じように伝わるから、すぐに客観性を失って今の姿を形成していることになる。歴史を学ぶ、と口に出すのは容易いが、その作業はとてつもない情報の山を取捨選択して登り続けるということになるだろう。人生を捧げても納得の行く答えなど得られるはずがない。
私は何が正しいのかを判断することが出来ずに今生きている。自分なりの価値尺度というものに客観性を見出すことが出来ず、あるいは今世の中で流れている情報に客観的なものなどないのだから、正しいものなど有り得ない、という自我の喪失を起こしているのではないか。地球規模で考えると、自我というものは必要ないと思ってしまうが、生きる上ではそれを失うことは、人間という生物としての死を意味するのである。

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Spain&France27~Plaza de Espana1~

スペイン広場に向かう。「ドンキホーテとサンチョ・パンサの像」などセルバンテスを記念した像が建てられている。
自然の摂理すら科学が上回って人類が進化し続けるという見解には懐疑的である。それは自然ではなく不自然だからということだろう。私のなけなしの知識の範囲ではそういう結論である。にも関わらず、私はValuationというものを学んでいる。これは神に対する冒涜ではない。なぜならば私は無宗教だからである。しかし科学が自然というものを超えることが無いのであれば、私はその自然を神であると考えても良いのではないかと思っている。
それぐらい自然というのはそこにあることが自然なのであり、人類がエコだと言ってそれすらビジネスにして飲み込んでいく資本主義というものが正しいのかどうかは疑問である。しかし職業としての公認会計士というのは、市場がない場所では成立しえない職業である。人類にとって本当に必要なのか分からない。それでも経済学者の言うように、市場というものがアフリカやアジアの貧しい国々の貧困を解決したり、世界中の砂漠化を止めることが出来るというのであれば、それを信じたいと思う。
そして日々の暮らしに疑問を感じつつも、レジ袋をもらわないだとか、節水を心がけるとか、そういうことはしてしまうわけである。根本的な解決にならないとしても、必要以上に高騰を続ける原油や穀物があるべき姿というものを探して落ち着くことに貢献したいという気持ちからなのかも知れない。石油というものは、過去の地球の歴史である。我々は過去の地球の歴史を消費して、資本主義の枠組みの中で言う発展を続けて来た。それもつい最近の話である。
これは過去の地球上の生命体などが、我々人類の進化を見越して献身したと考えてよいだろうか。あるいは、過去の歴史を消費することは、あるべき姿ではないのか。あるがままの姿を受け入れることは、今は問題の解決に繋がらないような気がするが、例え私1人がこのようなことを考えてもマイノリティであろうし、そもそも私が問題だと思うことを地球が問題であると考えるとは限らない訳である。

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Spain&France26~MADRID PALACIO REAL4~

モノの価値というのは究極を言えば人件費なんじゃないかな、と仕事の休憩中に窓の外の建築現場を見ていてふと思う。原油を採掘するのも、企業で製品を製造して付加価値と言うものを生み出しているのも、すべて人間である。人間の代替となるロボットに関しても、人間が開発し、製品化したものである。コンピュータプログラミングもまた、全て人間の発想であるし、コンクリートをこねて乾くのを待つのは人間だが、コンクリートそのものに価値はない。
株券だってまた然りである。人間社会では価値を測定する尺度は貨幣であることが一般的だが、それは人間という生物の活動が根本にあり、ある意味で全て人件費の積み重ねである。我々はあたかもそのものに価値があるように扱いますが、金融市場で取引される株式や債券、デリバティブなども全て根本には人間の活動があるわけで、そのものに価値がある訳ではない。Valuationと言いつつ、価値を測定することにチャレンジし続けている人間も、神が生み出した法則には敵わない。
Fair Valueという概念もすんなり理解することは出来ない。所詮基準を作る人間というものは忙しいので哲学的ではありえないのだから、ある一定の枠組み(市場関係者)においてのみ理解しうる測定基準に過ぎない。不動産のValuationについて、色々書物をあさったりして勉強してみたが、結局愚かな行為に過ぎないと感じてしまう。不動産は人間の生活を映し出す小宇宙であり、これの価値を測定するに当たって、人間の生活から乖離してしまうことは不自然である。
投機的な行為による歪みというものが、市場からなかなか無くならないのは不自然であるが、長い時間をかけることによって本当に解決していくのだろうか。ひょっとすると皆が歪んでいるというものもまた自然であるのかも知れない。動物という生命体は安定を望む。しかし変化というストレスが無ければ死ぬのである。究極のストレスも究極の退屈も人間の精神を破壊してしまう。適度に安定した生活の中で、適度にストレスがあるときには人は充実感を得ることが出来るのかも知れない。それが昔からの地球上の動物の生活なのだから。
生きるためにはリスクを避けるということが必要であり、しかし全くリスクのない状態では危機意識というものを失い、次のリスクによって滅びる訳である。それがこれまでの地球の歴史であるし、我々が地球の歴史の一部でないということは有り得ないから、何かを忘れてしまっている人類はいつか滅ぶだろう。その何かは私には分からない。私は突き詰めれば人類は滅ぶべきであると思っているからである。恐竜が滅んだ理由はよく分からない。それと同じぐらい分からないが、人類が滅ぶことはごく自然なように思うのである。

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Spain&France25~Santa Maria la Real de La Almudena2~

大聖堂内は静寂を保ち、天井付近に装飾されたステンドグラスから差し込む光が神々しさを演出する。1つ1つの聖堂が芸術作品であるかのようだが、これは神が導いたことなのだろうか。あるいは人間の欲が映し出された姿なのか。こういった大聖堂は上から見ると十字架の形をしているという。このような建築に至るとは試行錯誤の結果であろうが、長きに渡り時間をかけて建てられる中で、歴史上の宗教に対する様々な影響は建築物にも影響を与えたのだろうか。
私のような無宗教の人間が、観光とは言えこういった教会に足を踏み入れ、写真を撮ることは、少し不謹慎な気がしないでもない。教会の建築や修繕には莫大な費用がかかるから、観光客による寄付等の収入が欠かせないのだろうが、そのために多くの日本人のような無宗教の国民や、全く違う宗教の国の観光客に開放ししていることは、収入等を気にしない純粋な信者としては特に疑問を持たないのだろうか。恐らく観光客が訪れることで国が富めば多くの国民にとって宗教は必要なくなるだろう。
多くの国民にとって宗教が必要なくなるということは、このような大聖堂は単なる観光地となり、信仰を集めるということは出来なくなる。観光地として開放することは、その存在意義を失うことに繋がることとなり、守られるべきものが守られなくなることはないだろうか。それとも神という存在はそれすらを考慮に入れているのだろうか。私にはやはり宗教というものを理解することが出来ない。信仰の深さのような尺度はないし、他の宗教と比較することも出来ない。
そういった発想そのものが、恐らく宗教にはそぐわない。自分中心で物事を考えてしまう貧困な発想は、人類を救うことは出来ず、結果として自分が救われるということもない。資本主義のみが人類を救うだろうという発想の根幹には、社会主義に近い発想があり、企業というものもまた、利益を追求することにより、多くの人類を等しく救済し得る仕組みであるということが、自然の摂理に適うが故にその存在意義を認められているのではないか。分かりもしない宗教というものについて適当なコメントをする。適当なコメントは時に有益なことがある。哲学者という職業は時間があまって仕方ない人間の集まりを正当化するために存在したに過ぎないが、彼等の発想は今現在の人間の真理というものを適確に捕らえているのであり、現代人のいかなる発想も究極的には彼等の受け売りに過ぎない。

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2008年4月24日木曜日

Spain&France24~Santa María la Real de La Almudena1~

スペイン王宮内で孔雀を発見する。写真の練習がてら撮影するが、影になってあまり綺麗に撮れないというパターンである。
スペイン王宮の向かいにはアルムデナ大聖堂がある。完成したのが1993年とつい最近のことであり新しい建築物であるが、建築の計画自体は16世紀である。着工は1800年代の後半で、途中で頓挫しつつ現代において完成した訳である。そういった建築物もあるのか、などと関心するが、人類の長い歴史からすれば、あるいは地球の遥かに長い歴史に比べれば、大した時間ではない。
大聖堂はトレドに続いて2つ目であるが、この時点では未だ教会建築に対する感動は薄れていない。新しいためあまり有り難みを感じないが、長い歴史があれば良いというものでも無かろう。



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Spain&France23~MADRID PALACIO REAL3~

スペイン王宮写真集。





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