大聖堂内は静寂を保ち、天井付近に装飾されたステンドグラスから差し込む光が神々しさを演出する。1つ1つの聖堂が芸術作品であるかのようだが、これは神が導いたことなのだろうか。あるいは人間の欲が映し出された姿なのか。こういった大聖堂は上から見ると十字架の形をしているという。このような建築に至るとは試行錯誤の結果であろうが、長きに渡り時間をかけて建てられる中で、歴史上の宗教に対する様々な影響は建築物にも影響を与えたのだろうか。
私のような無宗教の人間が、観光とは言えこういった教会に足を踏み入れ、写真を撮ることは、少し不謹慎な気がしないでもない。教会の建築や修繕には莫大な費用がかかるから、観光客による寄付等の収入が欠かせないのだろうが、そのために多くの日本人のような無宗教の国民や、全く違う宗教の国の観光客に開放ししていることは、収入等を気にしない純粋な信者としては特に疑問を持たないのだろうか。恐らく観光客が訪れることで国が富めば多くの国民にとって宗教は必要なくなるだろう。
多くの国民にとって宗教が必要なくなるということは、このような大聖堂は単なる観光地となり、信仰を集めるということは出来なくなる。観光地として開放することは、その存在意義を失うことに繋がることとなり、守られるべきものが守られなくなることはないだろうか。それとも神という存在はそれすらを考慮に入れているのだろうか。私にはやはり宗教というものを理解することが出来ない。信仰の深さのような尺度はないし、他の宗教と比較することも出来ない。
そういった発想そのものが、恐らく宗教にはそぐわない。自分中心で物事を考えてしまう貧困な発想は、人類を救うことは出来ず、結果として自分が救われるということもない。資本主義のみが人類を救うだろうという発想の根幹には、社会主義に近い発想があり、企業というものもまた、利益を追求することにより、多くの人類を等しく救済し得る仕組みであるということが、自然の摂理に適うが故にその存在意義を認められているのではないか。
分かりもしない宗教というものについて適当なコメントをする。適当なコメントは時に有益なことがある。哲学者という職業は時間があまって仕方ない人間の集まりを正当化するために存在したに過ぎないが、彼等の発想は今現在の人間の真理というものを適確に捕らえているのであり、現代人のいかなる発想も究極的には彼等の受け売りに過ぎない。
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2008年4月25日金曜日
Spain&France25~Santa Maria la Real de La Almudena2~
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