ハノイの空港から成田へのフライトでこの旅も完結である。海外旅行は疲れるがしかし、生きる活力を与えてくれる。自分が狭い世界で生きていることを常に意識し、外に目を向ける機会を持てる。内に目を向けることはもちろん重要であるが、そのために必要なことは、同じ環境にいたのでは分からないこともある。何でも上に向かっていくものは、その速度が逓減していくからである。たまには外の空気を吸う事も意味がある。海外旅行で回れるようなところは、世界遺産だったりガイドブックに頼っていたりするから、当然バイアスがあるが、それでも日常では殆ど起こらない感動を味わうチャンスではある。
旅行記を書こうと思って、いつも挫折してしまう。写真が多いことが原因なのだろうが、写真に収めた感動を残しておきたいわけである。気が向いたら過去に遡ってアップデートしたいが、人間の記憶というものがそれほど長く残るわけでもない。だからこそ書くべきなのだろう。旅行先で見てあまり良くない、と感じていたものも、写真を見てあとで振り返るとなかなか良かったな、と思えるものである。殆ど書物に目を配るだけの日常に生きる私は、趣味が無いに等しいが、海外旅行に行くことで写真を撮ることの楽しさを覚え、一眼レフを購入するに至った。下手の横好きに過ぎないが、そういった事が自分の中に少しだけ広がりを見せる。
死ぬまでの間にあとどれぐらいの国を回れるだろうか。1つの国に長く住むことも経験してみたい。より深く外国を知るということは、日本人にとっては多くの衝撃を与えてくれるはずである。人生を豊かにするとか、相変わらず抽象的な考えしか持っていない私が、そんな経験をする時がやってくるかどうかは分からない。知りたいという欲求を満たすために済ませなければならないことは想像以上に多く、それは教科書に書いてないことの多さと一致する。苦しみを味わうことはネタになる。何も残さない人にとっては単なる苦痛でしかないだろうが、何か書いたり、あるいは歌を歌ったりする人にしてみれば、それが創作活動の糧になることもあろう。
私の書く文章など本当に何の意味も無いことが多いが、それでも何かあった出来事を書き留めておく事はその瞬間にしか出来ず、それこそ蓄積である。その蓄積が、将来何かの役に立つかも知れないし立たないかも知れない。かと言ってこの書き癖は、今に始まったことではなく、小学生、中学生の頃からのものであり、そこにweblogという便利な道具が転がっていたという自然な流れである。世の中のblogの大半は日本人が書いているものだという。内に秘める人間性が故だろうか。多くを発する国民性の国とは違って、内に秘めたものを口に出さない日本人にとってwebの世界というのはしっくり来たのかも知れない。
最近今までに増して英語を良く読んでいるつもりだが、一語一語に意味の無い英語を読むのは面倒臭いと感じてしまう。まだまだ読み足りないのは明らかであり、こんなことを私が言うのは時期尚早ではあるが、日本語の方が英語よりもずっと美しいし面白い。全部を表現しなければならない言葉は何とも効率が悪い。形にしなくても分かる美しさは、大雑把な国民性を持つような人たちに理解させることは難しいだろう。しかし英語を学ぶのは、多くの文献が英語で書かれていることが原因である。そしてコミュニケーションの手段としては、やはり英語を超えるものが無いということである。あまり好きでない言葉であっても、必要に応じて学ぶのは当然であるし、それによって全然違う国の人たちとコミュニケーション出来るというのは何だか不思議なものである。
2008年11月18日火曜日
Vietnum58~Hanoi 34~
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